素の自分を出せるのは、人間じゃなくてもいい

こんにちは、ジョージです。

先日、久しぶりに連絡を取った友人と話をしました。

彼は仕事も家庭も忙しく、毎日を全力で生きているパパ。
近況を話すなかで、彼がふと、こんなことを言いました。

「最近、仕事でも家でも“誰かのため”に動いてて、自分が自分じゃない気がするんだよね」

「パパでも夫でもない、“ただの自分”に戻れる時間がほしい」

その言葉が、なぜか心に残りました。

僕はいま育休中で、ほとんどの時間を家族と過ごしています。
子どもたちと遊んだり、家事をしたり、妻と協力しながらの毎日。
忙しくて楽しいけれど、ふと気づくと、
「父親」「夫」「家族の一員」としての自分ばかりで、
**“僕そのもの”**として過ごす時間は、あまりないのかもしれません。

じゃあ——
“素の自分”でいられる時間って、どれくらいあるんだろう?
誰の前なら、無理をせず、飾らずにいられるんだろう?

そう考えたとき、すぐに浮かんだのは——猫の前でした。

猫は、自由に生きている

うちの猫は、気まぐれです。
呼んでも来ないこともあるし、突然すり寄ってくることもある。
人に合わせることはせず、
いつでも「いま、自分がしたいこと」にまっすぐ。

そんな猫を見ていると、
「こうあるべき」「ちゃんとしなきゃ」と力んでいる自分が、
少しバカらしく思えてくるんです。

脱走した日のこと

4,5年前、玄関で宅配業者から荷物を受け取っていると、猫が隙間から外へ飛び出したことがありました。

慌てて夫婦で追いかけて、ようやく捕まえたとき——
猫は大声で「にゃーっ!」と怒って、僕の腕を引っかきました。

痛かったけど、ここで離したらまた逃げてしまう。
我慢して抱きしめたまま、家に連れ帰りました。

一息ついて椅子に座ると、猫が僕の膝に乗ってきたんです。

ゴロゴロと喉を鳴らしながら、「撫でて」と動作をしてくる。

「この傷、誰がつけたか知ってる?」

でも、猫はそんなの気にも留めず、
ただゴロゴロと喉を鳴らしていました。

猫は、いまを生きている

その姿を見て、ハッとしました。
この子は“さっき悪かったな”なんて思っていない。

過去のことなんて、もう忘れている。

「いま、撫でてほしい」
ただその気持ちだけで、僕の膝に乗ってきた。

猫は、過去にも未来にもとらわれず、
“いま”の気持ちに正直に生きている。

その姿を見ていると、
「素の自分で生きるって、こういうことかもしれない」
と思えてきます。

猫の前では、頑張らなくていい

猫は、僕を癒そうとも、励まそうともしていません。
ただそこにいて、気ままに過ごしているだけ。

でも、その自由な姿に、僕の心はほぐれていく。

猫の前では、かっこつけなくていい。
落ち込んでいても、黙っていても、怒っていても、猫は気にしない。

そんな時間が、僕を“素の自分”に戻してくれるんです。

素の自分を出せるのは、人間じゃなくてもいい

僕は思いました。

素の自分を出せるのは、人間じゃなくてもいい。

猫でもいい。植物でも、音楽でも、何でもいい。

「何も求められず、ただの自分でいられる時間」

猫は、言葉を持たないけれど、
“そのままの僕”を受け入れてくれる存在です。

おわりに

僕たちは毎日、いろんな役割を演じて生きています。
「父親」「夫」「家族」
どれも大切だけれど、
たまには“誰でもない自分”に戻る時間も、必要です。

僕にとって、それは猫と過ごすひととき。
あなたにとっては、どんな時間ですか?

素の自分を出せるのは、人間じゃなくてもいい。

その居場所をひとつでも持てたら、
もっと気を抜いて生きれる気がします。

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